野口英世像

 口英世、(明治9年〜昭和3年)福島県生まれで、幼名は清作と云った。幼い日、囲炉裏に落ちて大火傷をしたが、母の必死の看護で一命をとりとめるも、手の指が癒着してしまう。後に外科手術をうけて回復したことから医学を志し、伝染病の研究に身命を捧げる。明治31年、北里柴三郎の伝染病研究所に入り、明治33年渡米して、ロックフェラー医学研究所員となり、大正7年、南米エクアドルに行き黄熱病の研究を開始し、昭和2年、アフリカののガーナに渡って研究中、自らも黄熱病に感染して殉職する。

 国に渡っている英世の所へ送られてくる母の手紙は、たどたどしい文字で早く帰って来て欲しいと、いつも訴えていた。英世は寸暇を割いて、大正4年、帰国し母を伴って関西方面を旅行す。
 大正4年10月10日、博士の一行は大阪城を見物し、途中茶屋で一服した後、箕面に向かった。母親のシカは、足が遅いし茶の湯の作法も知らないからと、一足先に箕面の滝道の「琴の家」に到着した。琴の家の女中は、この田舎者らしい老婆を今夜主賓の博士の母とは気付かず、玄関脇の控部屋に通した。やがて、博士一行が到着し、それと知って女将は平身低頭して恐縮したと云う。
 やがて料理が運ばれると、博士は自ら箸をとって料理を母の口に運び、人目を憚ることもなく、懸命に母に給仕することに余念がなかった。その姿に舞妓の八千代は、涙が溢れるのを抑えるることができず、そっと席を外して、ハンカチで眼を拭ったと云う。
 その話を聞いて心を打たれた女将の妹の南川光枝は、自分が所有する土地を処分して50万円を作り、心ある人たちにも募金を募って、250万円で、琴の家に近い高台の上に博士の銅像を建てた。昭和30年11月である。野口英世はすでに昭和3年にこの世を去っていた。

 像は横浜で造られ、川西まで汽車で、そこから牛車で箕面まで運ばれ、そして、箕面の駅前からは紅白の綱を子供たちが曳いた。

(ちなみに、2004年から使われている1000円札には野口英世の肖像が用いられている。)