聖(ひじり)の住処

 (ひじり)とは、本来は高徳の僧の意味であるが、十世紀頃から、正規の寺院での修行に不満を抱き、それを離れて別所(本寺の周辺に結んだ草庵の集落)で修行したり、あるいは、諸国を遊行する僧が現れる。彼らのことを「聖」と呼んだ。
 特に、念仏行者には「聖」となるものが多かった。空也などは、その早い時期の例である。
こうして諸国を遊行する念仏僧たちが、しばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があった。

 安時代末期、後白河法皇は、当時、巷で歌われていた雑芸の歌を執念のように洗いざらい集めて「梁塵秘抄」を編集した。梁塵とは建物の棟木の上に積もった軽い細かい塵のことである。中国の古書に、美しい声で歌う歌の響きは棟木に積もった塵を動かすと云う意味の言葉があり、これによって名付けられたものである。
 その中に次の2首の今様の歌があり、聖たちの寺として箕面が全国的に著名であったことが知られる。

○聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、 南は熊野の那智とかや

○聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮


 面はどうして聖たちの住処となったのか。それは何よりも、浄土信仰そのものが箕面で発生したことによる。すなわち、勝尾寺の第四代座主証如が初めて念仏信仰を唱えたためである。念仏信仰はその後、「市の聖」空也を経て千観へと伝えられて行くが、この千観もまた箕面寺に住んだ。 彼は最も古い和讃である極楽国弥陀和讃を作る。人々は彼を「箕面の尊き聖」と呼んだが、後に島上郡安満寺に入り、浄土日想観の地として金竜寺を再興する。
 このような縁によって、浄土宗の開祖円光大師法然は、その生涯の最後の4年間を箕面の勝尾寺で過ごす。法然は75才の時、女官たちを出家させたことで後鳥羽上皇の怒りに触れて土佐国に流罪になる。9ヶ月の後には赦免の沙汰が下るが、そのまま京都に入ることは許されず、ここ勝尾寺の二階堂に4年間滞在する。二階堂は証如によって建てられた堂であった。80才になった時、やっと京に戻るが、日をおかず入滅する。
 このため、勝尾寺は真言宗の寺であるが、その中にあるこの二階堂だけは浄土宗になっている。そして、勝尾寺は円光大師法然上人の第5番の霊場となっている。