(4)如意谷・白島・石丸コース(市街北中部)

金剛・生駒の山並みを遠くに望む緑豊かな山麓に、数多く点在する様々な古蹟・旧跡を訪ねてのウォーキング。
巡礼道には往時の道標が、箕面駅まで案内してくれます。




@代官所跡 A銅鐸出土地 B竜王神社
C如意輪観音堂 D宝珠院 E医王岩
F大宮神社跡 G小鶴の庭(消滅) H白姫神社
I徳本上人名号碑 J文化三年道標 K奉納百八十八番道標
L如意谷の庚申塔 M萱野道分岐の道標 N平尾の北向地蔵
O牧の荘の道標

@代官所跡
旗本の青木氏が所領である牧の荘(平尾、西小路、牧落、桜の4ヶ村)支配のために置いた代官屋敷(平尾役場とも云う)の跡地である。宝持山の山腹にあるが、特にこの場所は屋敷山とも云われた。今は、荼吉尼天の祠がある。これは青木氏が、日頃から信仰する三河の豊川稲荷からご分霊を受けて、屋敷の守護神として祀っていたものである。
A銅鐸出土地
昭和41年、如意谷団地造成現場で、近くに住む本城寿男氏がブルトーザーによって一部破損した銅鐸を発見した。この発見によって、銅鐸は人為的に埋められたものであることが初めて明らかになり、如意谷銅鐸は全国的に有名になった。4世紀頃に猪名川流域に展開していた為奈物部氏が埋納者であろうと考えられている。
B竜王神社
竜王はインダス河のワニを神格化したもので、水の神・雨乞いの神である。善如竜王は善女竜王で女体ある。空海が神泉苑で請雨法を修した時に勧請したのも善如竜王である。箕面のこの地域は水の乏しい所で、農民たちは池を作り溝を掘り、降雨を祈って竜王を祀った。この社は宝暦10年(1760)に建てられ、もともとは如意谷の山の上にあったが、如意谷団地開発の時にここに移された。
C如意輪観音堂
現在の萱野北小学校の場所に、中世には如意輪寺と云う大寺院があったが、応仁年間に兵火で焼亡し、焼け残った観音像は、この如意輪堂で祀られていた。しかし、現在は宝珠院の本堂に移されている。庭前には保護樹木のヤマモモとクスノキの大木があり、堂の後には如意滝と称する小さな滝があって行場になっていたが、今は水が枯れてしまっている。
D宝珠院
如意輪寺が応仁年間に焼失した時に焼け残った子院である。如意輪堂にあった観音像は今はここで祀られている。
E医王岩
高さ25m、3層に重なった巨石で、人が立っている姿に似ていると云う。古くから、農耕神である大己貴神・少彦名神の影向石として尊崇され、この岩が為那都比古神社の元々のご神体であったとも考えられる。少彦名神は医薬の神でもあるので、仏教の薬師如来と習合して、薬師岩とも呼ばれた。
F大宮神社跡
為那都比古神社の元々の社地である。古くは、比古神・比売神とも、ここで祀られ、神宮寺として大宮寺も作られた。やがて、比古神のみは現在の為那都比古神社の場所に移って、ここでは比売神のみを祀り大婦天王社(大宮神社)と呼ばれた。しかし、明治初期に大宮寺は廃絶して鐘楼と薬師堂のみが残り、さらに明治末期に大宮神社も比古神の為那都比古神社に合祀され、今は何も残っていない。
G小鶴の庭
今は失われた大宮寺の子院であった持宝院の庭園で、江戸時代の名庭師小鶴の作庭である。今は荒れ果てているが、枯山水の石組と築山にある見事な高野槇が優雅な趣きを残している。庭内に「箕面市十勝の内」と刻んだ碑が立っている。
<注記>この庭はもはや存在しない。ブルトーザーで削平されて更地に化していてる。
H白姫神社(水神社)
大正13年の大旱魃の時、心霊修行者の多田佐太郎が当地に来て、従兄弟2人に共に雨乞い祈祷をすると、忽ちに降雨があった。このために、元は山の中腹に竜神として祀っていた社を山の上に遷し、名も白姫大明神と改めたと伝えられている。
I徳本上人名号碑
白島村と石丸村の共同墓地の中に、徳本上人が書いた六字名号を刻んだ小さな石碑が3本立っている。徳本上人は宝暦8年(1758)紀州日高郡に生まれ、晩年の13年間、勝尾寺に庵を結んだ有徳の浄土僧で、彼が書いた蔦文字と云われる独特の南無阿弥陀仏の六字名号は、広く民衆に尊崇され、全国で300本近くが今も残っていると云う。
J文化三年道標
巡礼道の脇に立つこの道標は、観音像と「左勝尾寺、右中山」の文字を刻み、文化3年(1806)丹後国兵助とあり、遙か遠い丹後国の人の寄進である。
K奉納百八十八番道標
巡礼道の脇に「左ハ中山」と彫った小さな道標があり、「奉納百八十八番」とある。すでに188基の道標を全国的に寄進してきた篤志家によるものである。
L如意谷の庚申塔
巡礼道が鍋田川を渡った所に、地蔵など十数体の石仏群があり、その右に如意谷村の庚申塔がある。明治20年に建てられたもので、箕面の庚申塔としては新しいものである。
M巡礼道と萱野道の分岐の道標
巡礼道が萱野道と合流する地点に道標がある。正面には「すぐみのを」、裏面に「すぐ京道」とあり、願主は京の中本氏である。
N平尾の北向地蔵
巡礼道の脇に北向きに4体の地蔵を祀る地蔵堂が建っており、夜泣き地蔵とも呼ばれる。乳飲み子を残して女房に先立たれた男が、夜になると泣き出す子を背負って歩いているうちに、この地蔵の前に来るとピタリと泣き止んだので、このように呼ぶようになったと云う。この地蔵堂の脇には元禄13年(1700)に立てられた平尾の庚申塔がある。
O牧の荘の道標
サンプラザ西入口の脇に自然石が2つ置かれている。大きい石は牧の荘の標石と云われ、牧の荘(平尾・西小路・牧落・桜の4ケ村)を所領した旗本青木氏の代官寺井新十郎が、その位置を示すために建てたもの。小さい石は「すぐ中山」と記した道標である。これらは元は大井堰水路の中の分水石に転用されていたものである。