(5)粟生(新家・外院・間谷)コース(市街北東部)

勝尾寺参道の町石を辿り、山の麓を右に折れると牧歌的な風景が見られるスポットへ。
神社仏閣や石仏群、保護樹林や保護樹木、見どころが多く変化に富んだ道行きが楽しめます。



@勝尾寺大鳥居 A新家の春日神社 B勝尾寺表参道町石
C善福寺 D素盞鳴尊神社 E楠木神社
F中村の天満宮 G間谷の庚申塔と道標 H法泉寺
I山之口の五字神社 J粟生外院の五字神社 K帝釈寺
L為那都比古神社

@勝尾寺大鳥居
勝尾寺表参道が西国街道から分岐する地点に石造の大鳥居がある。鎌倉時代の寛文3年(1245)に初めて建てられ、以来、何度も修理再建が行われたものである。この鳥居の下に、表参道36町に1町ごとに立てられた町石の、最初の36町石があり、それらの町石を寄進したのは大阪淡路町小嶋屋長左衛門後室であることを記した標石がある。
A新家の春日神社
この付近は平安時代には摂関家藤原氏の「垂水東牧」と呼ばれた広大な荘園の一部であった。この荘園は後に藤原氏の氏神である奈良の春日神社に寄進された。その縁でここに春日神社が祀られている。境内には新家の村の愛宕社もある。西入口には、享保2年(1717)の庚申塔と35町石がある。境内はアベマキ・アラカシの保護樹林である。
B勝尾寺表参道町石
大鳥居から北に延びる道は勝尾寺表参道で、この道に沿い、勝尾寺までの距離を示す町石が立っている。この辺りの町石は江戸時代に大阪淡路町の小嶋屋長左衛門の後室が寄進したものである。失われているものも多く、現存は36(大鳥居下)、35、34、32、30、28、27、26、23、・・・であるが、元の位置から移動され順番が狂っている所もある。
C善福寺
真言宗の寺で、開成皇子が勝尾寺を開いた時、その山麓に作られた外院6坊の一つと伝えられるが、定かではない。参道の坂道の途中に享保2年(1717)の庚申塔がある。この寺の南側の台地は善福寺原と呼ばれ、中世には、善福寺原城と呼ばれる砦が設けられていた。
D素盞鳴尊神社
祇園の神で防疫神である牛頭天王を祀り、粟生天王社と称していたが、明治初期の神仏分離によって素盞鳴尊神社と改名したものである。大正7年、神社統合において、この社が粟生村の総社とされ、粟生村内の全ての神社がここに統合されたが、戦後それらは再び元の場所に戻った。参道脇に愛宕社がある。平安時代にここにあった菩提寺との関係は明らかでない。境内はコジイ・ヤマモモなどの保護樹林である。
E楠木神社
粟生間谷の奥の集落の氏神である。祭神として天照皇太神宮の神札が祀られている。明治40年の神社統合によって素盞鳴尊神社に合祀されたが、戦後再び分祀されて、ここに戻ったもので、現在でも素盞鳴尊神社の御旅所となっている。境内には大きなムクノキがあり保護樹木である。
F中村の天満宮
粟生間谷の中村地区の氏神である。境内には樹齢数百年の巨大なムクノキがある。祭神は菅原道真であるが、このムクノキがもともとのご神体であったろうと云われている。境内の裏口の所に巡礼道の道標がある。
G間谷の庚申塔と道標
総持寺から勝尾寺へ向かう巡礼道が裏川を渡った所に石仏群があり、その中に享保8年(1723)に建てられた庚申塔が2基ある。さらに新しく、昭和51年に建てた角柱の碑にも青面金剛・地蔵菩薩の文字が刻まれている。その端に立つ「左かちをじ道」の道標は筑前博多の人の文化15年(1818)の寄進である。道の反対側には、大峰山五十五度の碑があり、文政8年(1825)粟生村西鐘掛組とある。
H法泉寺
建保元年(1213)に開かれて浄土宗の寺である。民話「守り隠れさん」で語られる悲劇の庄屋市郎兵衛の位牌が伝えられている。
隣には本成寺と云う日蓮宗の寺があったが、焼失して今はない。この本成寺の場所は中世の砦跡で、空堀や狼煙台の跡が残っている。
I山之口の五字神社
八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祭神とする珍しい神社である。粟生外院にある五字神社が「ごじ」神社と読むのに対して、ここは「ごあざ」神社と読む。これは、山之口地区を構成する5つの垣内(かいと)、山之口、白駒井(はっくい)、垂井引成、釜屋、辻ケ市の氏神であるためである。境内は保護樹林で、エノキ、センダンなどがある。
J粟生外院の五字神社
もとは帝釈寺の境内にあった鎮守社を安永6年(1777)にここに遷したもの。山之口の五字神社と同様に、八意思兼命を祀るが、ここは「ごじ」神社と読む。これは地主神である護地明神を配祀するためである。境内には牛頭天王の碑があり、珍しい灯籠型の愛宕社がある。境内のヤマモモ、アラカシなどは保護樹林である。
K帝釈寺
平安時代に作られた真言宗の古寺である。勝尾寺を弥勒仏の内院と考え、その山麓の外院において、守護の天部を祀った寺である。帝釈天、毘沙門天、弁才天の三天を祀って、古くは三天寺と称したが、現在は帝釈天を主尊として帝釈寺と称している。毎年、節分には山伏の柴燈護摩が行われる。境内には宝暦5年(1755)の庚申塔があり、三十番の勝尾寺町石もある。境内のヤマモモは立派で保護樹木である。
L為那都比古神社
延喜式の古社で、為奈物部氏出自の猪名県主が祖神の為那都比古、為那都比売を祀ったもの。元々は1kmほど西の大宮神社跡にあったが、後にここに移った。中近世には牛頭天王を祀って牛頭天王社と呼んだが、ここが為那都比古社であることを示した標石が、社寺奉行大岡忠相により元文元年(1736)境内に立てられている。明治末の神社統合により、萱野村内の神社はすべてここに統合された。境内のヤマモモは保護樹木。