滝道こぼれ話のこぼれ話

箕面滝道

こぼればなし(第3集)

(こぼれ話のこぼれ話)

箕面観光ボランティアガイド編

第一話    徳本の六字名号碑  中の坂
第二話    種田山頭火の句碑  聖天宮
第三話    桂公の愛妾お鯉さん  松風閣
第四話    三度作られた森秀次の像  ・
第五話    如意輪観音は水の神  瀧安寺
第六話    千願内供雨に祈る  瀧安寺
第七話    光格天皇の母は倉吉の娘  瀧安寺
第八話    琴の家の女将お琴さん  琴の家
第九話    名妓八千代の涙  琴の家
第十話    三国峠の遠見の滝  ・
第十一話    もう一つの上方落語  大滝
第十二話    雨乞いの馬殺し地蔵  瀧の上







第1話 徳本の六字名号碑

 
 
 中の坂の大井堰水路分水点の脇に、蔦文字と云われる独特な南無阿弥陀仏の六字名号を彫った道標が立っている。 浄土宗の念仏行者徳本上人の文字である。
 彼は宝暦八年に紀州日高郡に生まれ、九才で出家を志し、十八才で父が死んで以来、「常坐不臥」、常に座禅をして、夜も横にならぬ生活を死ぬまで続ける。食は一日一合の豆粉と麦粉だけであった。岩室の断崖絶壁の岩の上で、昼夜不断の念仏の千日苦行を行い梵網戒経を感得し念仏の教義を悟った、
 浄土宗の開祖法然の遺影を慕って 四十四才の時、勝尾寺に来て松林庵に住み、毎月十五日には、法然が住んだ二階堂で別時念仏を行ったが、その日は、近在遠郷より老若男女が、その法会に連なろうと列をなしたと云われている。
 彼が書いた六字名号を人々は護符とし、名号碑を立てて、念仏講の標とした。 六十才の時、江戸小石川の一行院に入り、翌年没した。



第2話 種田山頭火の句碑


                                                          西江寺の山頭火の句碑

 季語や五七五と云う俳句の約束事を無視して、自分のリズム感を重視する「自由律俳句」を詠み、尾崎放哉と並び称せられた戦前日本の俳人。
 彼は山口県佐波郡(現防府市)の大地主の家に生まれ、早稲田大学に入るが、父が酒造業に失敗して、家産を失う。 熊本で古本屋を始めるが酒に溺れ、禅寺の寺男になる。
 やがて、観音堂の堂守になるが、寺を出て雲水姿で全国を放浪する。五十七才、松山で没す。、
 最も知られた句は、「分け入っても分け入っても青い山」
              「うしろ姿がしぐれてゆくか」
             「まっすぐな道でさみしい」

◎山頭火と云う俳号は、納音(なっちん)と云う運勢判断の中の語で、 天に火が燃え上がる程の勢いの運勢。
◎聖天宮西江寺では、短歌・俳句・川柳の句会がしばしば 行われた




第3話 桂公の愛妾お鯉さん



                                      松風閣                                   お鯉観音
                                       
 箕面観光ホテルの別館「桂」は、もとは、明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら七人によって「関西財界人クラブ」として建てられ「松風閣」と名付けられた建物であるが、明治・大正の間に総理大臣を三度も勤めた桂太郎が愛妾「お鯉さん」を伴ってしばしば宿泊したので、人々が冗談に「桂公爵別邸」と呼び、それが建物の名前になったものである。
 彼女は本名「安藤照」。「お鯉」は芸者名。東京四谷の漆問屋に生まれたが、生家が没落し新橋芸者になる。江戸前のきっぷの好さと美貌が評判を呼び、絵葉書に描かれる程の人気を得る。元老山県有朋に懇請されて桂太郎の妾になる。日露戦争の講和条約に反対する民衆が起こした「日比谷焼き討ち事件」では、彼女の妾宅までが暴漢に囲まれるが、彼女は死装束に短剣を抱き、毅然として耐えたと云う。桂の没後、剃髪して、目黒の羅漢寺の尼住職となる。
羅漢寺には縁結びの神「お鯉観音」が祀られている。



第4話 三度作られた森秀次像



                                                久安寺に残る二代目胸像

 夫婦橋を渡った所にある森秀次の像は三代目である。
 彼が大正十五年に没した後の昭和五年に、ゆかりの箕面公園内に初めて銅像が作られた。場所は現在の所ではなく、一の橋北詰にあった公園管理事務所の前に建てられた。ところが、昭和十八年に、第二次大戦に伴う金属供出によって撤去される。それが、どこへ行き、どのようになったかは、知るよしもない。
 しかし、彼の出身地の池田市細河地区の人々の篤い想いによって、陶器製の胸像が作られ、それが代わりに設置される。これが第二代目の像である。この像は現在、池田市の久安寺の庭園内に移されて保管されている。
 そして、大戦終了後の昭和四十四年、もう一度青銅製の像が再鋳されて設置される。場所も、公園管理事務所の移転に伴って、夫婦橋北詰めに移った。これが三代目の現在の像である。この像は池田市在住の彫金家平松宏春(故人)の作で、その鑞製の原型は現在、郷土資料館にある。




第5話 如意輪観音は水の神



如意輪観音は水の神である。瀧安寺はもともと水の神弁財天を祀ったが、平安時代中頃に至り、同様に水の神である如意輪観音をも祀るようになった。
 如意輪観音は四世紀に印度から熊野那智に渡来した裸形上人によってもたらされた。伝説によると、彼は那智の滝壺で高さ八寸の金色の如意輪観音の像を得たと云う。七世紀に至り、大和から来た生仏と云う僧が、椿の大木から高さ一丈の如意輪観音像を作り、裸形上人が得た八寸の像を、その胎内に収めて、これを青岸渡寺の本尊にしたと云う。
かくて、如意輪観音は滝の神になり、箕面の瀧安寺もまた、これを祀ったものである。修験者たちは、那智の滝を南滝と呼び、箕面の滝を北滝と呼ぶ。その両者は修験山伏たちによって結ばれた。
如意輪観音は、女の月待ちとされた二十二夜の本尊であったから、女の守り神ともされた



第6話 千観内供雨に祈る



滝安寺に住んだ僧侶のうち、朝廷から最も高位を授かった人は千観である。
 彼は相模国の国司橘敏貞の子。母が清水寺の千手観音に祈って懐妊したので、千観丸と名付けられたが、園城寺に入り僧となる時、幼名をそのままに千観と名乗った。
 彼は比類なき智者と云われ、推挙されて内供奉十禅師に至り、阿闍梨伝燈大法師の名をも給う。
 ところが、ある時、四条河原で空也に出会い、その場で名利を捨て浄土信仰へと入って行く。
 やがて、箕面寺に入り、常に念仏を唱えて「念仏上人」とも呼ばれ、村上天皇の応和三年、請雨の修法を行うベしとの勅命を受け、勅使と共に大滝の滝口を覆う柳樹に登り香炉を捧げて祈ると、忽ち降雨となったと云う。人々は彼を「箕面の尊き聖」と呼んだ。
 その後、康保元年、島上郡の安満寺を再興してここに住み、我が国最初の和讃「極楽国阿弥陀和讃」を作る




第7話 光格天皇の母は倉吉の娘



 役行者に神変大菩薩の号を贈り、さらに行者が入滅した瀧安寺に、山門として御所の門を下賜した光格天皇。その生母は、伯耆国倉吉の鉄問屋「大鉄屋」の娘「おりん」が、岩室宗賢と称する浪々の町医者との間に作った娘「お鶴」である。
 「お鶴」九才の時、宗賢に連れられて京に上り、櫛笥家と云う中級の公家に奉公する。そこで、美貌と聡明さを認められて成子内親王の小間使いの侍女になり「留子」の名で呼ばれる。この成子内親王が、従兄弟に当たる閑院宮典仁親王に嫁ぐと、彼女は内親王の媵になり、親王の家女房(内女房)の一人となり、「磐代」の女房名を貰って三人の皇子を生む。第一子が祐宮師仁、第二子が寛宮盈仁。師仁親王は聖護院門跡を継ぐことになる。ところが、後桃園天皇が急逝すると、その師仁親王が皇統を継ぐことになり光格天皇となる。そして、代わりに、第二子の盈仁親王が第三十代聖護院門跡となる。



第8話 琴の家の女将お琴さん


                                    琴の家前にて (右端が小林一三、左端の扇子を持つ女性がお琴さん)


 琴の家の女将南川琴代は和歌山市の出身。大阪北浜の料亭淡路屋の仲居になる。淡路屋は淡路島出身の山西忠次郎が明治四年に創業した料亭で、当時は二代目忠次郎の未亡人タネが女将として仕切っており、その下にお琴さん(南川琴代)とお里さんの二人の仲居がいた。
 明治四十年、小林一三が、北浜銀行の岩下清周の招きで三井銀行を辞め、親子五人で夜行寝台車で梅田に降り着いた時、駅に一人迎えたのは、この琴代だった。しばらく逗留するための旅館を用意したのも彼女だった。
 やがて、小林一三が箕面有馬電気軌道の設立に当たり、滝道に茶店出店者を募集すると、琴代は大金を借りて琴の家を建てる。関西財界人七人衆が建てた松風閣の料理も引き受けて、琴の家で作って運んだ。このこともあって、琴の家は政財界の知名人のみが泊まる高級料亭とされた。野口英世が泊まったのは大正四年。この間琴代は女将として店を仕切り、女丈夫、女傑と呼ばれた。



第9話 名妓八千代の涙



 野口英世が老母シカに心を砕いて孝養する様子に涙し、後年、英世の銅像が建てられる機縁となった芸妓は、当時、東京赤坂の万竜、京都祇園の千賀勇と並んで日本三名妓の一人と云われた大阪南地の富田屋の八千代である
彼女は本名遠藤美記。河内の農家に生まれるが、養女にやられ、富田屋の芸妓になり八千代として座敷に出る。
 彼女は容姿の美しさと秀でた遊芸と、気品と人柄の良さで評判になり、絵葉書にまでなった。聡明で気配りの人で心やさしく、お客に対する人間味溢れた持てなしに皆が心を引かれた。それでいて気丈でキップが良く、権力や金銭ずくで物を言う客を嫌がった。
 どんな玉の輿にも乗れたはずの彼女が選んだ相手は、無名の貧乏画家菅楯彦だった。しかも、その結婚生活は幸せでなかった。姑は昔気質でガミガミ云う。彼女はそんな姑の前に両手をついて素直に頭を下げ口答え一つしなかった。慣れない炊事・洗濯で、ひび・あかぎれだらけの彼女の姿に涙ぐむ者は多かった。その結婚生活はたった七年で終わる。彼女は三十七才で他界する。
 野口英世が母に心を砕いている様子を見て涙したのは八千代が人一倍心やさしい女性だったからに他ならない。



第10話 三国峠の遠見の滝

摂津名勝図絵

 石子詰から登った所に三国峠と云う場所がある。三つの国を眺めることが出来る峠と云うが、三つの国とはどこなのか。丹波、山城、河内、播磨、摂津の名が挙げられるが、これらの中からどこを選んでも、誰しもが納得できるものにはならない。そもそも、全国には三国山・三国岳の名が二十個所以上あるが、殆どすべてが旧国名の三カ国の境界であって。三カ国を眺望できるために名付けたと云う例はない。
 どうやら、三国とは三つの国ではなく、「三国一の花婿」「三国一の花嫁」などと云う時の「三国」ではあるまいか。この辺りから大滝が樹間に遠く眺められる。眺められるのは、三カ国ではなく滝である。その遠見の滝を愛でて「三国一の眺め」と云ったことから、何時しか三国峠と云われるようになったのではあるまいか。
 摂津名所図絵の中の箕面滝の絵は、この遠見の滝の絵ではないかと云う説もある。




第11話 もう一つの上方落語



箕面の滝が出てくる上方落語には「蛇含草」の他にも「そうめん喰い」がある。
 大食漢の八公に一泡吹かせようと、特別に長い長い素麺を喰わせる。箸で挟んで持ち上げてタレに漬けようと思うのだが、持ち上げても持ち上げても素麺が続く。
「長い素麺だなぁ。まだある。まだある。これどないなってんねや。ちょっとすんません。そこの階段を貸してもらいまっさ」
二階へあがる階段を上がっていって、二階まであがったが、そこで足を踏み外して転んでしまい、したたかに腰を打つ。階段に素麺が上から下まで、ずっと懸かる。
 「やあー、綺麗やないか。箕面の滝みたいや」
 「あぁー、それで腰を打ったんや」
ここでも、蛇含草の中の「箕面の滝喰い」と同じように、箕面の滝が滝壺に落ちる直前に、岩に当たって腰折れになっていることをオチにしている。



第12話 雨乞いの馬殺し地蔵


                                                           河童駒引きの絵馬

 箕面の農民たちは、稲作のための水を確保することに、苦労を重ねた。非常に多い溜池の数が、それを物語るのみでなく、路傍の小詞や石仏なども、それを物語っている。
 大滝の上流の雄滝の少し上の川の中の岩の上に、「馬殺し地蔵」がある。江戸時代の末頃、葦毛馬を曳いて来て、ここで首を斬り、川の中に投げ入れたと云う。本来は水の神が住む清浄な渕へ、汚穢なる動物の死骸を投じることによって、水の神を怒らせて雨を降らせようとするものである。あるいは、水神が大雨を降らせて、その穢れを洗い流そうとすることに期待するものであると云う。あえて禁忌を犯す雨乞いである。心ならずも殺した馬の霊を弔うために作ったのが、この二体の地蔵である。
 河童駒引と云う説話がある。渕に住む河童が岸に居る馬を水中に引き入れるというもので、広く全国各地に伝わる。河童は水神の零落したもので、駒引きは馬を水神への犠牲として捧げものであると考えられている。



/BODY>