牛頭天王信仰 |
箕面に限らず、全国的にスサノオノミコトを祀った神社は数多い。これらの殆どは以前は牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたものである。
箕面でも、桜ケ丘の阿比太神社は昔は牛頭天王社と呼ばれ、粟生間谷のスサノオ神社もかつては粟生天王社と呼ばれて、いずれも牛頭天王を祀っていた。それだけでなく、石丸の為那都比古神社も牛頭天王社であり、今は廃社になった白島の大宮神社も大婦天王社と云われて牛頭天王を祀っていた。
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。
京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て祇園社と呼んだのに始まる。天禄元年、悪疫を鎮める祇園御霊会(祇園祭)が始まったと云われる。
当時は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。
新たに牛頭天王を祀る社を作るのみならず、従来からの古社に牛頭天王を併祀することも多く行われた。そして、それらが、いつの間にか、従来からの祭神を押しのけ、牛頭天王を主祭神とするようになり、社名までもが変えられていったのである。
下って、近世に入ると、国学者や神道家が現れてくるが、彼らにとって牛頭天王は誠に疎ましい目障りなものであった。神道こそ絶対であるとして、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、記紀の中で重要な位置にあるスサノオ神と習合している牛頭天王は許しがたいものであった。さらに、「てんのう」と称することは「天皇」に対する重大なな僭称であり、大不敬と思われた。延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていることに彼らは憤激したのであった。
かくて、彼らは牛頭天王信長対策説なるものを考え出す。これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、織田氏が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称しただけのもので、本意から牛頭天王を祀ったのではないと云う説を作り出したのである。今、為那都比古神社に建っている「為那都比古社」と彫られた石柱は彼らによって立てられたもので、「牛頭天王社と称してはいるが、こここそ延喜式内の為那都比古神社である」と云いたかったのである。
やがて明治維新となる。国学者たちが拠った明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、すべてその祭神をスサノオ神に変えるか、もしくは、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めた。かくて、京都の祇園社自身も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更した。箕面でも、為那都比古神社は名を昔に戻しで祭神の中から牛頭天王を削除し、阿比太神社は名を旧に復して祭神をスサノオ神とし、粟生天王社はスサノオノミコト神社と改名し祭神もスサノオ神とした。