箕面の山には400〜500匹の猿がいる。300匹位が許容範囲なので、それを遙かに突破した超過密状態である。
箕面の猿のそもそもの始まりは、戦後約10年目、昭和29年に大阪市立大学(後に京都大学)の川村俊蔵(しゅんぞう)教授が、猿の餌付けに成功したことからである。翌昭和30年には、滝の上に自然動物園が開設された。杉の茶屋から谷へ降りた所で、観光客は入場料を払って入っていった。現在は立ち入り禁止になっている場所である。ここが餌付け場でもあった。翌31年には、箕面の猿は、国から天然記念物に指定される。かくて、猿は箕面の重要な観光資源となり、多くの観光客を引き付けていった。
しかし、その後次第に、猿が観光客に被害を与えるようになって来る。人間が持っている食べ物を奪おうとして、人に襲いかかって来るのである。昭和50年頃には、届け出のあった被害だけでも、年間300件近くになる。実数はその数倍に及んでいたに違いない。
他方、猿の個体数はますます増えてくる。何と云っても、栄養価の高い食物を与えられ、さらに、人間の弁当まで奪うのだから、繁殖は加速度的だった。天然記念物に指定された昭和31年には、せいぜい100匹位だったのが、あっと云う間に2倍・3倍、そして4倍になってゆく。こうなると、ますます、猿による被害が増えてくる。
そのため、人間と猿との間に柵を作ることにして、人間の方が檻の中から猿を眺めるような形にまでした。「人間の檻」と悪口を云われながらも、苦肉の策(柵)であった。
しかし、昭和52年に至ると、猿害の余りのすさまじさに、遂に自然動物園を廃止し、猿を観光の材料にしようと云う従来からの方針を180度転換して、猿を人間から分離し遠ざけることになった。
餌付けの場所を、滝の上から西の山中に移し、管理員が猿の様子を見ながら、小麦を餌として与えるようにする。他方、滝の付近には警備員を配置し、猿が人間に近づこうとしたら、棒をもって追い払うようにした。そして、観光客には、猿には絶対に食べ物を与えないで頂きたいとのお願いを繰り返した。「人間なんて勝手なもの。餌付けして引き寄せておいて、今度は追い払うなんて−−。」と云われながらも、−−−。
その後、単に猿を人間から隔離するのではなく、猿を本来の自然の野生の姿に返してゆこうと云うことになった。方針をさらに一歩進めるものである。このため、国有林の間伐地3.2ヘクタールに、猿の食餌となる樹木の植樹を開始し、平成7年には、1000本植樹と云う当初の目標を一先ず完了するに至った。
かつて「滝とお猿と紅葉の天ぷら」と云われた箕面の観光ターゲットも、その一角を消し去った。
野生の猿に餌付けした、いわゆる野猿公苑は、いま全国には数多くある。それらのうち、天然記念物に指定されているのは次の6箇所である。
幸島(こうじま) |
宮崎県串間市 |
1934年指定 |
指定第1号 |
高崎山 |
大分県別府市 |
1953 〃 |
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箕面山 |
大阪府箕面市 |
1956 〃 |
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高宕山(たかごやま) |
千葉県富津市 |
1956 〃 |
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臥牛山 |
岡山県高梁市 |
1956 〃 |
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下北半島 |
青森県 |
1970 〃 |
北限の猿 |
こうした野猿公苑は、天然記念物としての指定の有無と関係なく、その大部分が今となっては猿害に悩んでいる。
猿害と共に、全国の野猿公苑を悩ませている問題が個体数の増加である。天然記念物に指定されている場合は云うに及ばず、そうでなくても、動物愛護の点から、むやみに捕獲したり殺害することはできず、多くは、殆ど打つ手なしの手詰まりと云う。