箕面動物園

 治39年、政府は鉄道国有法を施行し、日本を縦断する鉄道幹線網を国有化した。この時、大阪〜舞鶴観の阪鶴鉄道(現在の福知山線)も路線を政府に買収された。そこで、同社は国有化対象外である近郊電車を北摂地域に引くことを計画し、その事業主体として箕面有馬電気軌道(株)を設立する。初代社長は北浜銀行頭取の岩下清周、三代目社長が小林一三である。
 これは、近世以来観瀑賞楓の名勝地として知られた箕面と古くからの温泉地有馬とに手軽に行ける電車を引こうと云うものである。

 当初の計画では、大阪梅田から豊中に至り、櫻井谷筋を通って箕面に来て、そこから西進して宝塚を経て有馬に至る予定であったが、豊中本町地区の住民の猛反対に遭って、箕面へは石橋からの支線で結ぶことになった。そして、明治43年3月に開通する。現在、箕面駅前にあるロータリーは、当時の電車の折り返しのためのループの跡である。人々はラケット線と呼んだと云う。その真ん中に箕面公会堂が建てられた。

 開通と同時に、小林一三は沿線の住宅開発を進め、池田に室町住宅の建設分譲を行い、箕面の櫻井では住宅博覧会を行うなど、それは精力的に進められた。こうした住宅には、当時はまだ一般には普及していなかった電気が供給された。これは電車のために作られた発電所の余剰電力を家庭にも送るものであった。

 の一方で、電車開通に合わせた明治43年、電車利用客の増加を図るために、箕面に我が国で三番目の動物園が開園された。現在、箕面観光ホテルやスパーガーデンがある場所である。総面積3万坪、延長5キロの回遊式の観覧遊歩道が設けられ、その所々に動物の檻が置かれた。入口の蓬莱橋を渡ると、不老門と名付けられた竜宮城型の門があり、そこから入る園内には数多くの東屋や茶店があり、宝塚歌劇の前身の舞楽堂「翠香殿」もあった。、翌明治44年には、この動物園で山林子供博覧会が開かれ、観覧車も作られた。
 しかし、大正5年には動物園は閉鎖されて、宝塚に移設される。宝塚に温泉が開発されたので、ここに集約しようとしたのであったが、箕面で、動物の屎尿の臭気に対する猛烈な苦情が起こったことも原因の一つと云われる。
 この動物園の跡地に、昭和26年箕面観光ホテルが作られ、昭和30年には温泉が発見されたので、昭和40年、箕面スパーガーデンを併設した。

 お、この場所には、松風閣と名付けらた建物がある。動物園時代には動物園の中に取り込まれ、現在は観光ホテルの別館になっている建物である。これは明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら7人によって、関西の財界人クラブとして建てられたもので、桃山風の総数寄屋普請で三階建て。土台は清水舞台作りの木組。3つの茶室は全国の銘木を集めて贅を尽くしたものである。
 この松風閣には、明治時代に総理大臣に3回もなった桂太郎が、愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まったので、人々は松風閣のことを桂公爵別邸と呼んだと云う。