(1)新稲・桜ケ丘・西小路コース(市街北西部)

山並みと季節の彩りに囲まれた小高い場所、大阪平野が一望できるスポットで思わず歓声! 
スカイアリーナを過ぎると歴史ロードの入口。旧家の町並や地域の文化に触れてみませんか。



@正法寺 A徳尾の巡礼地蔵 B新稲古墳
C吉田家墓地とこきんの墓 D布袋山栄松寺 E新稲の愛宕社
F新稲の一本杉と庚申塔 G阿比太神社 H桜ケ丘洋館通
I正丸稲荷社 J親水公園(箕面西公園) K光明寺
L孝高地蔵

@正法寺
正保4年(1647)に大阪の中津に創建された臨済宗の寺で、昭和42年に箕面の現在地に移転してきた。境内のエノキやケヤキの樹叢は保護樹林、アキニレは保護樹木になっている。寺の西側の川沿いの小径は、蛍の小径と呼ばれ、シーズンには蛍の乱舞が見られる。
A徳尾の巡礼地蔵
石仏を納めた堂があり、その前に元禄9年(1696)に作られた地蔵がある。巡礼たちの安全を守る地蔵とされて、この名がある。横に歌碑がある。
B新稲古墳
箕面市に残る唯一の古墳。この付近には幾つも古墳があったが、残っているのはこれだけ。6世紀に造られた横穴式石室の円墳で、後期古墳に属する。被葬者は当時北摂山麓に勢力を持っていた秦氏の一族と思われる。
C吉田家墓地と「こきん」の墓
河辺郡加茂の吉田四郎兵衛(ト斎)が元和年間に開拓して、新しく新稲村を作り庄屋となる。萱野三平の姉「こきん」はその吉田家に嫁いだ。三平は自刃の前日、この姉を訪ね、世間話をして辞去するとき、門口に見送る姉を、振り返り「あねさま、とんと、おさらばでございます」と云って別れたと伝える。
D布袋山栄松寺
元禄元年(1688)吉田ト斎が亡母の供養のために創建した。山号の布袋山は、開山の大応智勇が入山の前夜、布袋が招く夢を見たことによると云う。
もとは永松庵と称したが、享保8年(1723)に没した三平の姉「こきん」の法名「円覚院桂月知栄大姉」に因んで栄松寺に変えたと云う。
E新稲の愛宕社
愛宕社は防火の神、京都の愛宕山から護符を受けて祀っているもの。脇に消防車庫、火の見櫓があり、以前は散髪屋もあった。散髪屋は、昔は村人が共同で雇って散髪と火の見櫓の番をして貰っていたもの。つまり、ここには防火の4点セットが揃っていた。道の反対側に、元禄4年(1691)に新稲村が建てた巡礼道の道標がある。
F新稲の一本杉と庚申塔
昔ここには大きな一本杉があり、新稲の人たちは、朝日が昇ると、その影が池田村まで届いたと自慢した。平成3年の突風で倒れて今は切株だけが残る。その脇に、青面金剛と刻られた庚申塔が立っており、庚申待ちの習俗を伝えている。寛文7年(1677)の造立で、箕面では最も古い庚申塔である。
G阿比太神社
式内社。物部系の阿比太連が祖神を祀ったもの。本来の祭神はニギハヤヒノミコトと思われるが、中世に牛頭天王に変えられ、現在はスサノオノミコトになっている。明治40年代の神社統合により旧箕面村内の全ての神社がここに統合されたが、現在は半町、桜、新稲の氏神。境内のアラカシ、クロガネモチの樹叢は保護樹林。
H桜ヶ丘洋館通
第1次大戦後、洋風の生活様式を取り入れようと住宅改善運動が起こり、大正11年、日本建築協会が住宅改善博覧会をここ箕面の桜ヶ丘2丁目で開いた。モデル住宅25戸を展示販売し、うち10戸が現存し、幾つかは文化財になっている。
I正丸稲荷社
6世紀に作られた桜ヶ丘古墳群の中の小さな円墳の東半分が削られてそこに拝殿が作られ、西半分の石室が、稲荷の神殿として利用されている。墳丘上に生えているクロガネモチとムクノキは保護樹木に指定されている。この社は桜村にあるが、西小路村の人によって祀られている。
J親水公園(箕面西公園)
親水公園は、豊かな水辺の自然の中で水と遊ぶことが出来る身近な水辺空間である。この公園は平成6年に箕面川の河畔に整備された。
K光明寺
永禄3年(1560)に創建された浄土真宗の寺。明治7年に、この寺が箕面最初の小学校となり、西小路小学校と呼ばれた。明治16年に牧落に校舎が新設されるまでここで子供たちが学んだ。当時の子供の落書きが今も板戸に残っている。境内にある樹齢300年以上のイチョウの大木は大阪府指定の天然記念物であるが、落雷で幹が裂けている。
L孝高地蔵
もとは野ざらしであったが、近辺にマンションが出来た時に小祠が作られた。旱魃の時にこの地蔵を芦原池に沈めて引き上げると、雨が降ったと云う伝承がある。箕面地区内にあるが、西小路地区で祀られている。付近にあった他の地蔵もここに集められている。名前の由来は明らかでない。