(2)半町・牧落・萱野コース(市街南西〜南中部)

あまり知られていない古の文化をゆっくり訪ねながら、萱野三平旧邸・墓所まで。
国道171号に沿うように続く西国街道を、往時に思いを馳せながら歩いてみましょう。





@牛回しの塔 A瀬川・半町本陣跡 B弁慶の鏡水
C瀬川神社 D桜の地蔵 E金竜寺
F牧落八幡大神宮 G郷倉跡と力石 H牧落の高札場跡と道標
I教学寺 J稲の地蔵 K芝の高札場跡
L萱野三平の墓 M萱野三平旧邸

@牛回し塔
牛回しは牛が病気に罹らないように、昭和10年代まで農村で行われていた習俗で、農耕作業の始まる春先に、特定の樹木や石の回りを牛を牽いて回るもの。ここ半町では大威徳明王と刻まれた笠塔婆で牛回しをした。大威徳明王は五大明王の一つで、牛に乗り西方を守護する明王である。
A瀬川・半町本陣跡
江戸時代に西国街道(山崎道)に設けられた宿駅の一つ。当初は瀬川村のみだったが、後に半町と共同で経営する瀬川半町立会駅となる。本陣は一年交替で瀬川の山脇家と半町の梶山家で勤めた。他に、旅籠、木賃、伝馬所、問屋があった。瀬川と半町の境界には高札場もあった。
B弁慶の鏡水
ここに小さな池があり化粧井戸とも云った。寿永年間の平家追討の時、弁慶が自らの姿を水面に映して、戦いの吉凶を占ったとの伝えがある。今は水は枯れて、僅かな窪地を残すだけである。
C瀬川神社
天児屋根命神社、あるいは春日神社と云う。平安時代にこの辺りが摂関家藤原氏の垂水西牧の荘園であり、さらに奈良の春日神社の荘園になったことに由来する。境内に竜の井があり、ここから竜が昇天したと伝えるが、恐らくは水が噴出したのであろう。
D桜の地蔵
堂内に7体の石仏、堂外に十数の石仏・石塔がある。堂の横に樹齢600年のムクの大木があったが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れて切株だけである。前の道は「箕面まいり」の古道である。
E金竜寺
永正16年(1519)の創建と伝える浄土真宗の寺。元禄年間から、境内に雌雄一対のナギの大木があったが、現在は実生の若木が育っている。
F牧落八幡大神宮
牧落村の氏神で、寛文2年(1662)石清水八幡宮の分霊を奉祀したのに始まる。明治末期の神社統合の時、阿比太神社に合祀されたが、昭和20年代に再び元の地に戻った。
G郷倉と力石
牧の荘4か村を所領した旗本青木氏の年貢収納倉(郷倉と云う)がここにあった。前に置かれた力石は、年貢を納めに来た若者たちが力比べのために持ち上げた石。4斗、5斗、6斗の3つの石がある。(1斗は15kg)
H牧落の高札場跡と道標
ここは西国街道と箕面街道の交差点で、昔ここに高札場があった。いま、2基の道標がある。大きい方は牧落村の有志が立てたもので、服部天神や刀根山御坊への道を示す。小さい方は享保5年(1720)に吉文字屋利兵衛が建てたもので、箕面への道を示している。
I教学寺
浄土真宗の寺で、天文年間に始まった俗道場が、江戸時代の元禄2年(1689)に寺になったものである。明治時代の中頃、住職の子息三島海雲氏が中国で教師として勤務中、蒙古人から乳酸飲料カルピスの製法を学び、大正8年帰国後、東京にカルピス製造会社を設立した。いま境内には顕彰碑が立てられている。
J稲の地蔵(春日地蔵)
前を流れる鍋田川の改修工事の時に、川底から出土した墓石を一箇所に集めて供養したものである。地蔵と呼ばれているが、地蔵は少なく、観音、阿弥陀などの素朴な像や、小さな五輪塔などが大部分である。昔は現在のような墓石ではなく、埋葬した土の上にこれらを置いたのである。
K芝の高札場跡
ここは芝村の中を南北に通る小道が西国街道と交わる地点で、ここに一里塚があり、高札場にもなっていた。
L萱野三平の墓
昔は南山と呼ばれた千里丘陵にあったが、開発によってここに移された。この墓は三平が没して35年目に、兄の孫萱野重好と甥北河原長好によって建てられたもので、文字は百拙元養、撰文は堀南湖と云う当時の錚々たる文化人による。これは伊丹の酒造家である長好が、伊丹の領主の近衛公を通じて、これらの人たちと縁を結んでいたことによる。傍らに母「こまん」の墓もある。
M萱野三平旧邸
元禄15年(1702)1月14日の主君浅野内匠頭の祥月命日に、萱野三平が27才で自刃した長屋門と土塀の一部が残存し、三平の俳句の雅号に因んで涓泉亭の名で保存されている。大阪府の史跡である。邸内には、辞世の句の句碑が建っている。(月曜休館)