このページは、平成20年に10周年記念事業の一つとして作った小冊子をHTML化したものです。

箕面滝道

こぼればなし

箕面観光ボランティアガイド編

第一話 阪急箕面駅はラケット形の駅だった
第二話 中の坂は霊界と俗界の別れ道?
第三話 箕面には大動物園があった
第四話 初期の一の橋の橋柱が滝道で再利用されている
第五話 滝道では活断層の露頭が見られる
第六話 富くじのはじまりは瀧安寺だった
第七話 滝道には「オカメ岩」がある
第八話 地獄谷にはライオンがいる
第九話 滝道を観光馬車が走っていた
第十話 瀧安寺に釣鐘がないのは箕面川に落ちたから?
第十一話 滝の上には大すべり台や猿山があった
第十二話 滝道周回ハイキングコースが大正時代に作られた

滝道マップ


    
第一話 阪急箕面駅はラケット形の駅だった



 明治四十三年三月、箕面有馬電気軌道会社によって、箕面までの電車が開通しました。当時は現在の終点駅のような折り返し運転ではなく、線路が駅前広場(ロータリー)を一周してループ状に敷設され、降車場と乗車場は別れていました。人々はラケット線と呼んだそうです。その真ん中に箕面公会堂が建てられており、広い運動場も作られていました。今でも阪急箕面駅のホームがわずかにカーブしているのはその名残です。
 当時の鉄道技術では、列車の進行方向を変える設備器械を作ることが出来なかったからではありません。乗客に対するアトラクション効果を狙って、鉄道会社の創始者小林一三氏がわざわざそのように作らせたのです。効果を更に高めるために、降車場には二本の電飾塔も作られていました。
  



第二話 中の坂は霊界と俗界の分かれ道?



 中の坂は現在の滝道ができるまでは瀧安寺への唯一の参道となっており、神仏の住む霊界と人間の住む俗界との境界でした。
 中の坂の下の四辻にある道標の南面には「すぐ みのをかち、右京、左中山」と記してあります。また北面には江戸時代に勝尾寺で念仏を説いていた徳本上人が書いた六字名号(南無阿弥陀仏)が徳本文字(蔦文字)で彫られており、その下に「すぐ大坂、右中山寺、左京」と記されています。「すぐ」とは方角が真っ直ぐの方向という意味です。
 この向かいには大井堰水路分水地(四大字水利組合)があります。これは四大字(平尾、西小路、桜、牧落)が設置した大井堰の分水地となっており、昔は種籾を浸けておく場所としても利用されました。


第三話 箕面には大動物園があった



 明治四十三年、電車開通に合わせて我が国で三番目の動物園が開園されました。日本最大級で総面積三万坪、延長五キロの回遊式の観覧遊歩道が設けられ、その所々にライオン、象、虎、豹、ゴリラ、印度熊、ラクダ、孔雀、オウム、ダチョウ、さんしょう魚、カンガルー、さらには火喰い鳥などの珍しい動物もいたようです。入口には不老門と名付けられた竜宮城型の門があり、園内には数多くの四阿(あずまや)や茶店がありました。翌明治四十四年には、この動物園で「山林子供博覧会」が開かれ、大観覧車(空中回転機と呼んだ)も作られました。現在の上野動物園とディズニーランドを合わせたような賑わいだったようです。
 しかし、大正五年には動物園は閉鎖されて、宝塚に移設されました。



第四話 初期の一の橋の橋柱が滝道で再利用されている



 初期の一の橋の橋柱(きょうちゅう)(橋の名前を書いた石柱)が滝道で再利用されています。「時雨(しぐれ)」の広場、瀧安寺参道鳥居の手前、修業(しゅげ)の古場(こば)の三ヶ所で、表に「名勝箕面山」とありますが、後に回ると「いちのはし」「一の橋」が読み取れます。老朽化した橋を架け替えるときに、この橋柱に「名勝箕面山」を彫り加え、設置されたものと思われます。



第五話 滝道では活断層の露頭が見られる


 昆虫館の手前にある野村泊月の句碑の背後に活断層の露頭が見えます。このように活断層の露頭が見えるのは珍しいそうです。これは有馬の西部から高槻の東部に至る約五十五キロの間を走っている「有馬高槻構造線」と呼ばれる活断層帯のうちの一部の断層露頭です。 
 この断層帯が活動した最も新しい地震が約四百年前の慶長元年(一五九六)に起こった慶長伏見大地震です。この地震では構造線の東端にあたる豊臣秀吉が二年前に建てたばかりの伏見城天守閣が一瞬にして崩壊し、秀吉は二度と建て直す気力が失せたといいます。この慶長伏見大地震では北摂地域は壊滅的な被害を受けました。このため箕面でも、この時代より前の木造建築物はほとんど残っていません。
 なお、その四百年後の一九九五年に起きた阪神淡路大震災は、この構造線の西隣で起きたものです




第六話 富くじのはじまりは瀧安寺だった

 瀧安寺では毎年正月元旦から七日間行われる法要の後、お札(護符)を参詣者に抽選で配布していました。参詣者は灯明料を納めて木札を貰い、これに自分の名前を書いて富箱(とみばこ)と呼ばれる大きな箱に入れます。箱の上の小さな穴から寺僧は先に錐をつけた長い棒で突き、突きささった木札の人に護符が授けられました。護符を授かった人には福徳があるとされ大変な人気でした。これを「富くじ」または「箕面の福富」とも言いました。
 護符を得た者は遠方でも夜通し駆けて持ち帰りました。途中で他家に立ち寄ると福はその家にとどまるので、数人一組で食事や休憩も交替でとり護符を持つ者は必ず屋外にいたそうです。この箕面の福富が我が国における「宝くじ」のはじまりと言われています。



第七話 滝道には「オカメ岩」がある


 落合谷橋の上流五十米位のところに大きな岩が道路にせり出しています。これが「オカメ岩」です。 役行者(えんのぎょうじゃ)の母が、女人禁制の奈良吉野で修行中の役行者に一目会いたくて「亀」に姿を変えて会いに行った、という伝説にならって「お亀岩」とされたと言われています。また、オカメ・ヒョットコのオカメに似ているから、という説もあります。
  これらの他にも滝道には名前が付けられた岩が幾つもあります。次のページのライオン岩や、有名な姫岩、唐人戻り岩。さらに抱岩(昆虫館前)、夫婦岩(めおといわ)(ツツジ山)などなどです。



第八話 地獄谷にはライオンがいる

 姫岩から地獄谷を登る階段で、ふと目を上げて前を見ると大きなライオンの横顔が見えます。これがライオン岩です。
 この岩を横目に地獄谷の橋を渡ると、そこには「掬秋台(きくしゅうだい)」という標石柱があります。資料によると昔は対岸にあったようです。ここから下を見ると素晴らしい秋(紅葉)を掬(すく)い取る感じがすることからこのような綺麗な名前がつけられたのではないでしょうか。 
 その他にも、滝道には「一目千本(ひとめせんぼん)」「中の千本」といった紅葉の鑑賞スポットがあります。


第九話 滝道を観光馬車が走っていた



 昔は「つるや(有名な料亭、現在はマンション)前」から箕面大滝の滝見橋まで馬に曳かれた観光馬車が走っていました。修業の古場(しゅげのこば)の急坂では、満員のお客を乗せて、御者にムチで叩かれ蹄から火花を散らして登ったそうです。休日は観光客が多かったので滝道を通らず、駅前からドライブウエイを大日(だいにち)駐車場まで行ったそうです。
 しかし、動物愛護や衛生上の問題もあり、昭和五十八年に廃止されました。今でも、馬が水を飲んだ水飲み場が滝道に残っており、当時をしのぶことができます。
 馬車として働いた馬は「ペルシュロン」と云う品種の馬です。この馬はフランスのペルシュ地方で改良された馬で、大型で体躯は太く、重荷を曳くのに適し、国産のブネトン種とともに代表的な曳き馬です。



第十話 瀧安寺に釣鐘がないのは箕面川に落ちたから?

 箕面川の唐人戻り岩と箕面大滝の中間に「釣鐘渕」という深い渕があります。ここは昔、箕面寺(現瀧安寺)に納める釣鐘を牛の背に乗せて通りかかったところ、余りに急な道だったので牛もろともに転げ落ち、牛も釣鐘も二度と浮上しなかった、と言われています。今も瀧安寺に釣鐘や鐘楼がないのはこのためだという伝説があります。
 伝説の真偽はともかく、ここは一世代前の滝壷です。滝は約二十万年前に、六甲変動と言われる地殻変動によって北摂山地が隆起した時に、今の一の橋の辺りで生まれました。そしてその後次第に後退していって現在の所に至りましたが、今の場所になる直前は、ここに滝があったと推定されています。



第十一話 滝の上には大すべり台や猿山があった


滝の上の杉の茶屋の向かいの山には、長さ五十米(三十間)の大すべり台があり、訪れる人を楽しませていました。このすべり台は大正十三年に設置され「大山すべり」として親しまれていましたが、昭和十八〜二十年頃に廃止されたようです。
 戦後昭和二十九年になり、猿の餌付けに成功したことから、昭和三十年には、杉の茶屋から谷へ降りた所に有料の自然動物園が開設され、翌三十一年には、箕面の猿は国から天然記念物に指定されました。
 しかし、昭和五十二年になると、猿を観光の材料にしようという従来からの方針を百八十度転換して、この自然動物園を廃止し、猿と人間を分離することになりました。今では「猿の墓」に当時の面影がしのばれるのみとなりました。



第十二話 滝道周回ハイキングコースが大正時代に作られた

大正時代には三つの周回コースが整備されました。当時の案内図によると、
 第一路は現在の滝道。婦人老幼でも楽々行ける、との説明があります。
 第二路は紅葉橋から望海丘(ぼうかいのおか)展望台、駒の背、淀の背、如意が丘、地獄谷、極楽谷、一本松(現こもれびコース最高峰)、風呂が谷を経由し雲隣台から「杉の茶屋」に下るコースで、当時は青年団や学校の遠足に利用されたようです。
 第三路は、紅葉橋から第二路を通り、如意が丘から一路一本松に向かったあと、ババタレを下り政の茶屋(まさのちゃや)、雄滝を経て箕面大滝に戻るコースで、やや険しいが途中は奇岩怪石がそびえ立ち、眺望雄大、実に壮快な眺めに富んでいて登山家の間に有名、との説明があります。


後記

 MVクラブは「箕面の豊かな自然と歴史の中で喜べたこと楽しめたことをガイドしながら伝えたい」をモットーに活躍しているボランティア団体ですが、このたびちょうど創設十周年を迎えました。  その記念事業の一つとして、この小冊子を編集しました。  箕面観光の中心である滝道散策が、この冊子によって一層に味わい深いものとなることを願っております。
    (平成二十年十一月)


付記
本文中の写真のうち、過去の歴史的写真は、郷土資料館の展示写真を利用させて頂きましたものですので、ここに、おことわり致します。



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