箕面滝道

こぼればなし(第2集)

箕面観光ボランティアガイド編

第一話 聖天さんは男女抱擁の姿
第二話 捨て去られた滝新道の道標
第三話 梅屋敷では全国素人囲碁大会も行われた
第四話 躑躅原 この字読めますか
第五話 森秀次像の題字は浜口雄幸の筆
第六話 京都の道標が箕面にある
第七話 瀧安寺の絵馬には琵琶が描かれている
第八話 赤色が男、角があるのが女
第九話 石子詰めはあったのか
第十話 埋もれた戻岩の道しるべ
第十一話 大門原にヒガンバナが咲く
第十二話 頼山陽の詩碑の石は小学生が運んだ
第十三話 箕面の滝には額がある
第十四話 ようらく滝はなくなった

    



第一話 聖天さんは男女抱擁の姿


 
 中の坂を登り切った所にある聖天宮西江寺は、神仏混淆で、寺としては西江寺、神社としては聖天宮です。祭られているのは大聖歓喜天、略して聖天、もしくは歓喜天と呼ばれる仏法の守護神で、その姿は象頭人身の男女が抱き合っている形です。
 そのため、この聖天さんには、男女の秘部の象徴である大根と巾着の図柄があちこちに見られます。大提灯、線香立て、柱の釘隠し、屋根の瓦などなど・・・
役行者が初めて箕面に来た時、この坂で老人に会い「この山は自分の領地だが、お前に与えるから、ここに寺を建てよ」と語ったが、その老人が聖天だったと言われています。




  


第二話 捨て去られた滝新道の道標

 一の橋を渡ると道は左右二つに分かれます。右側は川に沿って川岸を行く道で、我々は通常この道を通ります。左側の道は石段を登って山に入って行き、川をはるかに下に見て、山腹を屈曲しながら進みます。明治時代初めまでは、この山腹の道を通って瀧安寺に至りました。右側の川沿いの道は明治十九年に、地元の平尾地区の人たちが、汗を流しながら石垣を積み上げて作った道です。
 この道が出来た時に、その分岐点に据えられた道標が、梅屋敷入口の手水鉢の脇に隠すように転がされています。「右瀧新道/左瀧舊道」と古い字で彫られています。いまは「箕面公園」と刻まれた大きい石が置かれて導線を形成しているので、この道標はその役目を終えて、もはや忘れ去られ捨て去られているのです。

<注記>この道標は、現在は再び元の本来の位置に戻されて設置されている。






第三話 梅屋敷では全国素人囲碁大会も行われた


 箕面公園に茶店が出来始めたのは明治二十年頃からです。明治四十三年電車が敷かれた前後には茶店や料亭が急速に増して五十店を数えるまでになりました。梅屋敷も明治四十二年開業し、隣に梅林があったことで名付けられ、藁葺き屋根・網代天井の風雅が賞せられました。滝道一帯で全国素人囲碁大会が開催された四十三年には、梅屋敷もその会場となりました。大正十年経営者が建物を大阪府に寄贈し大阪府の休憩所になり、おぜんざい、おはぎ、おしるこを売っており、句会やお茶会の会場としてもよく利用されました。しかし、平成十四年には無人になり老朽化も進んだため、府は解体する方針でしたが、保存を求める声が起こり、平成十八年、大掛かりな補修を行い、無料休憩所として復活させました。



第四話 躑躅原 この字読めますか

 梅屋敷を通り過ぎると連続して二つの橋が架かっています。S字状に屈曲している川をバイパスする近道に架けられた橋で、夫婦橋と呼ばれています。一つ目の橋を渡って右の山側を見ると、そこに「躑躅原」と彫った石柱が立っています。さあこれは何と読むのでしょう。これは漢字検定一級の難問です。左側を見ると、そこに答えがあります。「つつじが原」と標板が立っています。
 羊はツツジの花や葉を食べると酩酊状態になって、足をふらふらさせるから足扁なのだと言います。(「躑」も「躅」も「足踏みする」と言う意味)
 ここから見上げる左側の山が「つつじ山」。この辺たり昔はツツジが多かったのですが、今は木々が繁茂して陽当たりが悪くなり、ツツジが絶滅したのです。






 



第五話 森秀次像の題字は浜口雄幸の筆

 夫婦橋を渡った所に森秀次の銅像があります。彼は現在の和泉市に生まれ、現池田市の医師の養子に入った人で、明治二十八年四十才で府会議員になるや、箕面山の府立公園化に奔走し、三十一年にそれを実現させました。その後明治三十六年には衆議院議員となり、大正九年まで政界で活躍し、大正十五年に没しました。この銅像は昭和五年に、その功績と人徳を讃えて、ゆかりの地である箕面公園内に作られました。
 この銅像の題字が浜口雄幸の筆であることも注目されます。浜口は昭和五年当時の総理大臣ですが、これを書いてしばらく後に、凶弾に倒れたのでした。(肖像写真は箕面市史より)






第六話 京都の道標が箕面にある

 瀧安寺の墓地の入口近くに、もともとは京都にあった道標が立っています。「右大津」の文字が読め、さらに「右大谷清水、すぐ五条」とも刻んであり、明らかに京都の東山山麓にあったものです。
 これは、寛政十一年の役行者千百年遠忌に当たり、光格天皇が御座所の門を瀧安寺に山門として賜った時、その移築にまぎれて京都から運ばれてきたものに違いありません。
 光格天皇は明治天皇の曾祖父に当たられる方ですが、役行者を宗祖と仰ぐ天台系修験道の大本山である京都左京区の聖護院とは深い縁を持っておられました。従って天皇は、聖護院が役行者の千百年遠忌を営むに当たっては、役行者に神変大菩薩の号を贈り、さらに行者が入滅したと伝える瀧安寺に山門を下賜しました。今も山門の軒丸瓦は菊花紋です。



 


第七話 瀧安寺の絵馬には琵琶が描かれている

 瀧安寺のご本尊は弁才天です。弁才天は印度で生まれた水の神様で、印度での名前はサラスヴァティと言いました。今から千四百年前、はじめて箕面の滝にやって来た役行者が滝の直下に庵を結び、水の神である弁才天を祭ったことに寺が始まったからです。
 やがて、弁才天は音楽の神にもなりました。さやさやと流れる水音が妙なる音楽だつたからです。更に、音楽のみならず芸能全般の神様とも考えられました。こうして、瀧安寺には近松門左衛門らの写経が納められ、竹本義太夫の碑が立ち、右手に琵琶を持った弁才天の銅像がすっくと立っており、弁天堂に掲げられている絵馬には琵琶の絵が描かれています。







第八話 赤色が男、角があるのが女

 瀧安寺を創建した役行者の最初の弟子は夫婦で、男の方を前鬼、女の方を後鬼と言いました。役行者が山を行く時、前鬼が行者の前を行って、手に持った斧で木の枝を払って道を開き、後鬼は行者の後を歩いて袋に入れた草の種を蒔き、瓢箪の水を撒いて道を修復しました。
 護摩壇の後にある役行者の石像でも前鬼後鬼がお供をしています。行者堂に掲げられた絵馬の役行者でも二人が控えています。ところが、この絵馬を見ると右側の前鬼が赤色、左の後鬼が青色。そして後鬼の頭には角が生えています、男の方が何故赤色なのでしょう。そして女の後鬼には何故角があるのでしょう。
陰陽説によると、陽は太陽、昼、光、火、赤、男。陰は月、夜、影、水、青、女。だから前鬼が赤と言うのは分かりますが、女に角がある訳は分かりません。

 




第九話 石子詰めはあったのか

 石子詰は罪人を生きながら穴に入れ、その上に小石を詰めて埋め殺す刑罰で、中近世、血を見ることを嫌った社寺で私刑として行われたものです。
 最も有名な話としては、奈良の菩提院で十三才の三作という少年が誤って鹿を殺したために石子詰になった話や、高野山で村々の窮状を幕府に直訴した庄屋が石子詰になった話などがあります。
箕面の滝道にも「石子詰」という場所があります。しかし、本当にここで石子詰という凄惨な刑が行われたのでしょうか。何の記録も残っていません。この辺りには大きな石がゴロゴロしています。ここから三国峠へ登る山道も、ここの下の川の中も大きな石ばかりですから、こんな名前が付いただけで、石子詰は本当にはおこなわれなかったのかも知れません




第十話 埋もれた戻岩の道しるべ 



 唐人戻岩の真下に、小さな四角な石が少しだけ頭をのぞかせて埋まっています。昔の写真を見ると、ここには案内標識の石柱が立っていますから、これは戻岩橋を架けるために道を嵩上げした時に。埋まってしまって頭の先だけが残ったものです。
昔は戻岩橋という橋はなく、大門橋だけがあり、道は右岸をそのままに大門橋の西詰めまで伸びていました。しかし、大門橋の手前で崖が崩落して通れなくなったので、昭和四十五年新たに戻岩橋を架けて、これを通るようにしました。この時、橋の両岸の高さを揃えるために、戻岩の下の道を嵩上げしたのです。
 それにしても、唐人がこの岩を越えられなくて、ここから引き返したという伝説はとても事実とは思えません。「とうじん」は「刀刃」ではないかと言う別の説の方が説得力があるように思えます。




第十一話 大門原にヒガンバナが咲く

 戻岩橋の東詰めと大門橋の東詰の間の、現在は道路となっている所が大門原です。昔は戻岩橋はありませんでしたから、この間は何もない草原の平地でした。人々は戻岩からそのまま右岸を進んで大門橋で左岸へ渡りました。
 この草原に初夏にはヒガンバナが咲きました。その赤い花は、昔ここに僧坊があって人が住んでいたことを証明していました。
 それと云うのが、ヒガンバナは遺伝学で三倍体と呼ばれるもので、決して種子では増殖せず球根によってのみ増えるからです。だからここにあるヒガンバナはネズミなどの害を防ぐために僧坊の周りに人が植えたものです。滝の近辺には、ここ以外にもヒガンバナが咲くところがあるそうです。これらは箕面寺(現瀧安寺)が昔は滝の下にあったことを無言に示しているのです。




第十二話 頼山陽の詩碑の石は小学生が運んだ

 昭和十五年は軍国日本の頂点のような年でした。当時の我が国は日本書紀の伝説に従って神武天皇即位の年を西暦紀元前六六○年に当て、これを元年とした皇紀という紀元を用いていたので、昭和十五年はちょうど皇紀二六○○年でした。戦争への道をひた走っていた我が国は、軍国への風潮を高めるために。全国的にこの年を記念する行事をおこないました。この時、箕面では日本外史を著して幕末の尊王思想の醸成に大きな影響を及ぼした頼山陽が箕面で作った詩を刻んだ碑を建てたのです。
石碑の岩は戻岩辺りの川底から選んで、大きなヤグラを立ててウインチで引き上げ、コロを敷いて太いロープで引いて滝の下まで運びました。ロープを引いたのは箕面小学校の5・6年の児童約六百人で、交替で数日がかりでした。




第十三話 箕面の滝には額がある

 上方落語の中の「蛇含草」と云う話の中に箕面の滝のことが出てきます。餅好きの男が友達の所で、重箱に一杯入った餅を見て、オレなら全部食べられると言い出します。食べられるものなら食べてみろと云うことになって次々と食べるのですが、ただ食べるだけでは面白くないと、餅の曲食いを始めます。
 最初は「放り食い」。空中に餅を放り上げ、パクッと口で受けます。次は「お染久松夫婦食い」と云って、二つ一度に放り上げます。そして、「淀の川瀬の水車」。体の周りを回してから口で受けます。最後が「箕面の滝食い」。空中に放り投げた餅を額で受けて、ポンと跳ね返ったところを口でパクリ。
 これによると、箕面の滝は真っ直ぐに滝壷に落ちるのではなく、落ちる前に出っ張った岩に一度当って跳ね返ってから落ちる腰折れが特徴とされていたようです










第十四話 ようらく滝はなくなった 

  
  箕面川には三つの滝がありました。上から雄滝(上右)、ようらく滝(上左)、雌滝、この雌滝がいわゆる大滝です。雄滝は今も水しぶきをあげていますが、ようらく滝は今はなくなってコンクリートの落差工に代わってしまっています。
 ようらく(珱珞)は主に菩薩たちが身に着けている装身具、今でいうネックレスの類です。だから、ありし日のこの滝は細かい水流を玉簾のように垂らした美しい滝だったに違いありません。如来たちは一般には身を飾っていませんが、例外的に大日如来だけは珱珞を着けています。この滝は大日如来の珱珞です。
 滝の前には大日駐車場、その脇には大日橋。この附近は大日と呼ばれていたのです。少し登って百年橋から西へ入る谷を登り切った所が「ようらく台」です。 



後記

  MVクラブは「箕面の豊かな自然と歴史の中で喜べたこと楽しめたことをガイドしながら伝えたい」をモットーに活躍しているボランティア団体ですが、昨年創設十周年を迎えた記念事業の一つとして、「滝道こぼればなし」と言う小冊子を編集しました。
 この冊子はその続編です。
箕面観光の中心である滝道散策が、これらの冊子によって一層に味わい深いものとなることを願ってやみません。
       (平成二十一年八月)







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